ファンタジーの原点は子供にあるのか【ボス・ベイビー】
ボスベイビーがムロツヨシにしか見えない。
何故かTwitterでメイキングが何度か流れてきたボスベイビーのフレッシュな感想。
カワイイお尻。
お尻。
お尻。
とにかく赤ちゃんの質感が最高に可愛かった。
ボスベイビーがおとなっぽい赤ちゃんから普通の赤ちゃんに変わってしまうところなど、最高にカワイイ。
もしかしたらこの映画はラストで泣くところだったのかもしれないが、
私は冒頭で泣いてしまった。
冒頭というのは、主人公ティムの家にボスベイビーこと弟がやったきたとこだ。
父と母に愛されて毎日が冒険の日々だった主人公のもとに、父と母を奪う赤ちゃんがやってきてしまった。
自分の城だったはずの部屋にあふれる赤ちゃんグッズ、夜の寝かしつけの時間は赤ちゃんに奪われ両親は倒れるように眠る。
そしてティムは、我が家にやってきた赤ちゃんは普通の赤ちゃんではなく、ある目的のために派遣されてきたエージェントであると気づく。
空想癖のある主人公がおおよそ大袈裟に描いているようにも見えるが、もしかしたら、多くの子どもたちにとって、弟妹の登場とはこんなにも世界が変わる大事件なのかもしれない。
両親を自分を苦しめるためにやってきた悪いやつなのかも。
急速にかわる家庭環境は侵略行為にみえるかも。
そう思うと、多くの子どもたちの苦悩と葛藤に思いを馳せてしまい、うっかり泣いてしまいそうになった。
劇中では主人公の空想であるとわかるように演出がはいるとこもあったが、基本的に主人公の視点で物語はすすむので、この話が空想なのか現実なのか曖昧だ。
でも、嘘か本当かはどっちでもいいというエンディングであった。
私はこの最後がすごく気に入っている。
子どもたちは空想の世界を生きていていい。
弟妹の登場に子どもながらにたくさん悩み奮闘した日々を、おもしろおかしく記憶していてもいい。
私たちは、イマジナリーフレンドを含め、子どもの頃のワクワクやキラキラをすっかり忘れてしまうものだ。きっとティムだけでなく、すべての子どもは空想の中で生きていたのに、まるでずっと現実を生きていたように記憶している。
それはどっちが良いとか悪いとかない。
ティムが新しい家族を受け入れるための日々はワクワクでいっぱいだったのだ。
と、とてもコンセプトは気に入っているが、やはり作り込みが甘いような気もする。子どもの空想だから仕方ないと片付けてもよいが。
都合よい展開とか、設定があっさりしていたりとか、いや、子どもの空想だから仕方ないと…。
アメリカはなんでも歌で解決するな、とか思ってしまうような、いや、子どもの空想だから…。
それでも、私は我が子が大きくなったら一緒にみたい映画ではあった。
なんでもありだった子どもの世界を思い出せて、すごくよい体験だった。
死者の国から帰れない。
あの世界観を忘れられなくて、うっかり買ってしまったサウンドトラック。
なんだかんだめちゃくちゃハマっている。
先日のMステも何度も観ている。
またウン・ポコ・ロコが聴きたい、もうアミャモールアミャモールってとこが何を言ってるのか気になって仕方ない。ウン・ポコ・ロコの禁断症状だ。
ずっとウン・ポコ・ロコだけ聴いてもいい。
ちなみにこのCDは劇伴の収録はほぼなく、ボーカル曲をメインに収録されている。
なにか印象的な曲があったか覚えていないけど、せっかくなら劇伴もほしかったな。
【よかったとこ】
・日本語版と英語スペイン語版どちらも収録されてる
・オリジナル版のものだと思われるブックレットと日本語訳のブックレットが入っている、英語スペイン語の対訳も載っている
・聴き比べると、吹替版でもオリジナルの再現度が高いことがわかる
・石橋くんの変声期真っ只中のスーパーセクシーボイスが聴き放題
・愛しの松雪女史の歌声も聴き放題
・日本版エンディングのアレンジが悪くない
【よくないとこ】
・日本語訳ブックレットが味気ない
・劇中で採用された尺をそのまま収録なので、さみしい
途中でプールに落ちて曲が終わったり、セリフが入ったりするのも、さみしい
・劇伴がほぼ入っていない
ウン・ポコ・ロコ中毒であるが、音楽はぼくの家族も好きだ。
いや、正直ぜんぶ好きだ。こんなにハマると思わなかった。
せっかくなので、劇伴も収録したサウンドトラックの販売を待ってます。
いい邦題だ【リメンバー・ミー】
吹替にあらわれるあのダサいフォントをまずどうにかしてくれよ。
宣伝や評判にあった家族愛がどうたらかんたら、というのは押し付けてこなかったので、また嘘宣伝だったと確認できてよかった。
家族愛、自分が苦手なテーマのひとつだ。
無償の…永遠の…絶対的な…立派な枕詞のつく愛はどうも偏屈な自分には性に合わない。
今回はどんな美しい物語を見せられるのかと嘘宣伝と思いつつもヒヤヒヤしていた。
もちろん美しい愛が描かれていたが、従来の家族愛というよりも、もっと、いろんな形の愛が描かれていた印象だ。
愛というと重い気がする、もっと単純に、好きって気持ちがテーマだった。
好きって気持ちは消えない、隠せても偽れない。
自分を捨てた父でも忘れなかった、自分たちを捨てた夫でも忘れられなかった。
もちろん音楽だったり家族だったり友だちだったり仕事だったり偉人だったり、好きなものっていろいろあって、そんな好きって気持ちが運命を繋いでくれるよね、って言ってるような気がしました。
家族万歳な作品だったら拒絶反応だすところだったけど、バランスのよい描き方だった。
お節介で鬱陶しいのに邪険にできなくて、時には人生の障害になるのが家族だよね、家族愛って不器用だよね、ってバランスだったからよかったよかった。
家族だいじにしような!居場所だよな!
みたいなテンションじゃなくて、
どんな人生を送ってもどんな惨めで愚かな人間でも、おまえのことを忘れない忘れられない忘れてくれないのが家族だね、
ってテンションなのがよかったね。
あとは、
吹替で声をあてていた少年が変声期だったというのもあり、これはもうすごくセクシーな声で、
この声を聞くためだけに吹替をみてもよいと思います。
歌声もよかった。陽気なメロディの中に哀愁が潜む楽曲がおおく、彼のせつない歌声とマッチしていた。
あとは、
この話では泣けないイキりオタクになってしまったことを痛感したのは苦しい。
共感性羞恥を発症するシーンもおおく、もっと純粋な心で見たいとも思った。
あとは、
同時上映のアナと雪の女王の短編、オラフが放つ「誰も来ないパーティってすごいサプライズだね」というブラックジョークが強烈すぎて本編をくっているし、本編でロウソクのたくさん飾られた祭壇がうつるたびに火事を心配してしまうので、この同時上映は失敗だったと思います。
あとは、
おばあちゃんがすごくシワシワ
けっきょく、また観たいと思うくらいにはおもしろかった。南米の色使いはカッコよくてオシャレで、画面がすごく華やかで、画をみるだけでもおもしろい。ついストーリーを追ってしまうが、映像が私の好きな華やかさだった。
あの原題からこの邦題をもってくるのもセンスがいい。意図的じゃなくてもセンスがいい。
今年はマリーゴールドをむしってしまいそうだ。
恋愛エンドの話
少女漫画における女の子と女の子の大きな感情、つよい絆がほんとうにすきなんだけど、「最後に登場人物が全員おのおの異性愛カップルになる」というのが多く、やめてくれよというきもちがある(少女漫画に限ったことではなくたとえばハリポタにも見受けられる呪いなんだけど)
— baise moi💋 (@nighty_queer) 2018年3月21日
このツイートをうけて。
私も若い頃は「何故に恋愛感情がうまれるのか」ということが明確ではない作品に疑問を感じていましたが、
これは私が勝手に恋愛を美化しすぎていて恋愛にはドラマが必要なんだと思いこんでいたからだと気づいてからは、
突然の恋だ愛だの件も流せるようになりました。
少女漫画に限らず、恋愛オチ(仮称)は世に蔓延していて、苦手意識を感じている人も少なからずいる。
しかし、ファンタジーなスペクタクルから家庭へ帰る登場人物たちの描写は、フィクションからノンフィクションへの繋ぎとして非常に有効だ。それは、ノンフィクションの私たちに近づけることでよりフィクションを際立たせるためでもいいし、もしかして私たちにも起こりうるフィクションであることの暗示でもいい。
大冒険少年漫画のラストがヒロインと結ばれる。
これも決して伏線回収ではなく、冒険(非日常)のおわりと日常のはじまりの暗喩だ。
決して恋愛讃歌でおわったわけではない。
登場人物に恋人設定をつけると一気に現実味のある作品になるという通説を返せば、恋人や恋愛をとことん排除してファンタジーになれるということであり、最後に恋人や恋愛けることでリアリティを付加する。
それが私たちの余韻となり期待になる。
いつまでもラスボスが倒せない症候群の人は、永遠につづく物語を期待してしまう。
私もつくづくそうだ。楽しくて幸せな冒険がいつまでも続いていてほしいと思う。
高めあい尊敬しあいともに苦楽をともにした仲間たちがずーっと仲間でいてほしい。
それはそれでいいエンディングではある。
しかし、物語を思い出にするのも良いことだ。
思い出になることで美しく語り継がれる物語だってある。
物語がおわることは物語をより昇華させるために不可欠だ。
物語のおわりとして、恋人ができて幸せな家庭を築きました、は、まさに思い出にするためのプロセスだ。
それでも、唐突な恋愛を受け入れられない気持ちもわかる。
なぜその人なのか、なぜ好きになったのか、なぜあの人ではないのか、なぜ…
冒険ファンタジーであればあるほど、仲間や絆の心と心のつながりに感動してきた我々が、物語のないつながりに疑問をかんじるのも仕方ない。
しかし、そもそも恋愛には大義名分が必要なのか。
恋愛そのものでドラマをひとつ作れるが、恋愛にはかならずドラマが必要ではない。
彼女が彼を好きになることに理屈はいらないのだと言い尽くされているように、
ある日とつぜん人を好きになり恋人になり家族になるのは、説明する必要のない普遍なことだ。
恋愛を美化しなくていい。
恋愛を美化してはいけない。
仲間意識の高いいまの若者世代にとって、恋人という新しいコミュニティの突然の登場は受け入れがたいのかもしれない。
友だちに恋人ができることを、嫉妬とはちがう感情で受け入れられない人もいるらしい。私もだ。
なにか、そのあたりの感情も、作品をみるうえで関わってきていそうだ。
また若者の話になってしまう。
若者の話は別でします。
選択的寿命制の話
7年後に
— ゆきほり (@yuki0hori) 2018年3月13日
38万人の介護士が不足するなかで pic.twitter.com/ta2IUYDBm0
このツイートを受けて。
自分は選択的寿命制が採用されていいとすら考えている。
希望した年齢や日付で安楽死させてもらうという話。
(もうすでに別の名前で世にでていそうだが)
自分で自分を制御できないままに生き長らえたくないと考える需要への回答としてありだと思っている。
もちろん、穴だらけのアイデアだ。明日死にたいが叶うのか、あまりにも若すぎる死の許容範囲は、生き長らえたい人へのフォローは…。
それでも、生き方が自由であるように死に方だって本人の意志が尊重されてよいだろう。
しかし現状は、本人の意思表示があったにも関わらず家族の希望で延命措置がとられたり。
本人の希望があったにも関わらず、臨終のさいに何故助けないのかとクレームを言う家族がいて言われる医者がいる。
本人の意思表示だけが尊重されるのは、それが死であるからなおさら厳しいようだ。
また、ツイートでは延命措置のなかで胃瘻をあげている。(本当は胃瘻にかぎった話題だったのかもしれない)
後期高齢者であれば、胃瘻つけてまで生きるのは辛い、という本人や家族の意志はわかる。
では、今日死にましょうができるのか、
では、若年層への配慮はどうすればいい。
では、家族に介護の意志がある場合は。
むずかしい。
とくに、娘や息子の死の選択を素直に受け入れられる親がいるだろうか。
白衣にすがりついてでも生かしてほしいと言ってしまう人もいるだろう。誤診なのではないかと疑う人もいるだろつ。そんな受け入れられない感情が歪み、訴訟だなんだという話にもなるかもしれない。
医者が背負うにはおもすぎる負担だ。
助けたかったが力が及ばず…と言うほうがはるかに簡単だ。
なんなら、生かすか殺すか選んでくださいというのも簡単だ。
本人は死を希望しているので措置させていただきます。と伝えることはどこまで配慮すればいいのだ。
余命宣告すら物議であるというのに。
また救急の現場でなら、救命が最優先でなければ救急で措置ができないだろう。
本人の意志を尊重して救命しなかったとしても、本当に助からなかったのかが問題になるだろう。
医療現場は、まだ、医者の意志(救命)が尊重されるべきなのかもしれない。
いや、救命と延命はちがうのか。
選択的寿命制じゃないにしろ、本人の意志で延命が決めれることが普及するまえに、
まず医者をまもる法整備が必要だということがわかった。
わざわざ思考整理を公開するのは
自分の考えをまとめることが、頭の中だけで完結できる人になりたかった。
けど、頭の中の私と声を出す私と文字にする私は違う言葉にするので、なんか考えてることと言ってることがズレてしまうんですよね。だって使ってる、脳が違いますしね。いや同じかも。
スマホで書いたりパソコンで書いたり鉛筆で書いたり筆で書いたり、の違いでも、なんか違うこと書いちゃう。
アウトプット先がちがうと、違うこと書いちゃう。
だから、チラシの裏に書いたりお気に入りの手帳に書いたりTwitterに書いたりでもいいんだけど、
ブログにしてみるのもいいなって思った。
つまり、なんで、公開するかっていうと、
もしかしたら誰かが読むかもしれないと思うと、ちょっとカッコよく書きたくなるじゃない
わかりやすく、書きたくなるじゃない
私しか見ないノートは雑な思考実験のメモにしかならないけど、誰かに見られることを意識して考えた文章からは、もっともっと新しいことが生まれてきそう
10年以上ネット弁慶をしてるから現実社会では何も話せないし
10年ちかく使ってるTwitterのアカウントに新しい人格ができてて言えないことのほうがおおいし
そろそろ新しい弁慶がほしくなってしまいました