戯言吐溜

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恋愛エンドの話

このツイートをうけて。

私も若い頃は「何故に恋愛感情がうまれるのか」ということが明確ではない作品に疑問を感じていましたが、
これは私が勝手に恋愛を美化しすぎていて恋愛にはドラマが必要なんだと思いこんでいたからだと気づいてからは、
突然の恋だ愛だの件も流せるようになりました。

少女漫画に限らず、恋愛オチ(仮称)は世に蔓延していて、苦手意識を感じている人も少なからずいる。
しかし、ファンタジーなスペクタクルから家庭へ帰る登場人物たちの描写は、フィクションからノンフィクションへの繋ぎとして非常に有効だ。それは、ノンフィクションの私たちに近づけることでよりフィクションを際立たせるためでもいいし、もしかして私たちにも起こりうるフィクションであることの暗示でもいい。

大冒険少年漫画のラストがヒロインと結ばれる。
これも決して伏線回収ではなく、冒険(非日常)のおわりと日常のはじまりの暗喩だ。

決して恋愛讃歌でおわったわけではない。

登場人物に恋人設定をつけると一気に現実味のある作品になるという通説を返せば、恋人や恋愛をとことん排除してファンタジーになれるということであり、最後に恋人や恋愛けることでリアリティを付加する。
それが私たちの余韻となり期待になる。

いつまでもラスボスが倒せない症候群の人は、永遠につづく物語を期待してしまう。
私もつくづくそうだ。楽しくて幸せな冒険がいつまでも続いていてほしいと思う。
高めあい尊敬しあいともに苦楽をともにした仲間たちがずーっと仲間でいてほしい。
それはそれでいいエンディングではある。
しかし、物語を思い出にするのも良いことだ。
思い出になることで美しく語り継がれる物語だってある。
物語がおわることは物語をより昇華させるために不可欠だ。
物語のおわりとして、恋人ができて幸せな家庭を築きました、は、まさに思い出にするためのプロセスだ。

それでも、唐突な恋愛を受け入れられない気持ちもわかる。
なぜその人なのか、なぜ好きになったのか、なぜあの人ではないのか、なぜ…
冒険ファンタジーであればあるほど、仲間や絆の心と心のつながりに感動してきた我々が、物語のないつながりに疑問をかんじるのも仕方ない。

しかし、そもそも恋愛には大義名分が必要なのか。
恋愛そのものでドラマをひとつ作れるが、恋愛にはかならずドラマが必要ではない。
彼女が彼を好きになることに理屈はいらないのだと言い尽くされているように、
ある日とつぜん人を好きになり恋人になり家族になるのは、説明する必要のない普遍なことだ。
恋愛を美化しなくていい。
恋愛を美化してはいけない。

仲間意識の高いいまの若者世代にとって、恋人という新しいコミュニティの突然の登場は受け入れがたいのかもしれない。
友だちに恋人ができることを、嫉妬とはちがう感情で受け入れられない人もいるらしい。私もだ。
なにか、そのあたりの感情も、作品をみるうえで関わってきていそうだ。
また若者の話になってしまう。
若者の話は別でします。